豊臣秀吉の都市改造と京都の町割りの変遷

平安時代の町割り

794年の平安京遷都にあわせて、東西と南北を走る大路と小路の通りによって碁盤目状に区画する「条坊制1中国の都城の制度にならって施工された都市区画のもとで都づくりが行われました。人々が暮らす宅地は、四方を通りで囲まれた一辺120メートル(当時の単位で40丈)の正方形の区画を基本(=1町という単位)として整備されました。

庶民が暮らす区画は、一辺約120メートルの正方形を東西4分割、南北8分割して2四行八門制(読み:しぎょうはちもんせい)という、中国の都城に見られる町割り、1町に32の世帯が集まっていました。通りに面する側に建つ住居は容易に往来に出られたいっぽうで、内側の住居の住民は大路や小路より小規模な道(=小径)を通って通りに出ていました。

なお、皇族や貴族の宅地は1町を超える大きなものもありました。

平安京の条坊制では、四方を通りで囲まれた正方形の区画が碁盤の目状に並んでいました。1区画の1辺は40丈(約120m)で、この1区画を「町」と呼びました

鎌倉時代~室町時代

条坊制のもとで区画整備されていた平安京ですが、地方から多くの人が集まるようになり、人口が増えて都市活動が活発になると、様々な都市問題が発生するようになりました。また、9世紀後半には火災がたびたび起こったほか、疫病が流行しました。そして、しだいに貴族が左京の北部に居住を移し、右京は急速に農村化するなど都市の姿が変わっていき、やがて条坊制による区画も崩れていきました。

さらには、平安時代に商業が私的に行われるようになり、平安末期から鎌倉時代にかけて日宋貿易が活発になるなどして商業が発達するに従い、商家をはじめとする町家3地方から集まった商人が京都の住民として定着する際に、通りに面した公家屋敷地を買い取って小屋をつくったのがはじまりが人の往来する通りに面して建てられました。室町時代には日明貿易(勘合貿易)が始まり、貨幣の流通が増えて市が定期的に開かれるなど、商業がますます盛んに。それにともない通りに面していない家屋には人が住まなくなり、しだいに空き地などになりました。やがて大きな商家も建つようになり、通りに面して大小の家屋が軒を連ねていました。

商業の発達とともに、人が行きかう通りに面する側の家屋にばかり人が住むようになりました。一方、人通りが少ない路地に面した内側の家屋には人が住まなくなり、やがて空き地ができました。

桃山時代以降(天正地割以降)

戦国時代に応仁の乱で焼け野原となった京都は、戦乱の中で上京と下京に街区が分かれ、戦火に巻き込まれないよう町人らが自衛のためにそれぞれに塀(築地塀や板塀)や堀を巡らせていました。天下統一を果たした豊臣秀吉は、京都に城郭「聚楽第4「じゅらくだい」とも読む。金箔瓦や内部の豪華な障壁画など贅を尽くした城郭兼邸宅だったが、わずか8年ほどで秀吉自ら徹底的に破壊したため、いまだに謎が多い。や「御土居」の造営とともに、京都のまちの再開発に着手し、大規模な都市改造を行いました。主に159091年(天正1819年)ごろに行われた工事では、平安京の条坊制の街路を基本としながら、平安京の区画が崩れて空き地ができていた街区を見直しました。そして、正方形の街区の中央に南北の通りを新たに設けることで、区画の内側に建つ家屋も人通りのある通りに面するようにして、土地の効率化を図りました。短冊状の区画になったことで、間口が狭く、奥行きが長い町家が多くなりました。

今の京都のまちは、この時代の区画が基礎となっています。

正方形の区画の真ん中に縦の通りを新しく建設することにより、土地利用の効率化を図りました。

背割り溝は、道路に面した建物の背中(裏口)側を通る排水溝です。秀吉は、天正地割に先立ち、1583(天正11)年には大阪城の城下町造営の際に、後に「太閤下水」と称される背割下水を建設しました。

※備考(天正地割に関する補足説明)
  • 京都の都城域のうち下京の一部は、応仁の乱による被害が少なく、秀吉が都市改造に着手する以前から商人らによる繁華街がすでに形成されていたため、正方形のままの街区が残っています。
  • 秀吉が区画整理を行った範囲ははっきりしておらず、最近の発掘調査ではそれ以前の説を超える範囲に及んでいることが分かるなど、今も謎に包まれています。
  • 秀吉が新たに新設した通りは、現在の御幸町通(ごこまちどおり)や堺町通(さかいまちどおり)、両替町通(りょうがえちょうどおり)や醒ケ井通(さめがいどおり)、天使突抜通(てんしつきぬけどおり)など10以上あります。
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