平安京の中枢機関が集まっていた宮城「平安宮」の主要施設跡

大極殿遺址碑(だいごくでんいしのひ)

平安京の宮城であり、都の中枢機関が集積していた平安宮(大内裏とも呼ばれる)は、現在の京都における千本丸太町付近にありました。東西約1.2km(8町)、南北約1.4km(10町)の宮域内には、天皇が住む内裏(だいり)をはじめ、国家的な儀式が行われた朝堂院、主に天皇による公的な宴が行われた豊楽院(ぶらくいん)などの諸官庁が配置されていました。

千本通と丸太町通が交差する周辺には、この平安宮に関する史跡が点在しており、各建物がどのあたりにあったか知ることができます。住宅や商店、公共施設などが立ち並ぶ現在の街並みからは、かつてこの地に宮殿があった形跡は見られませんが、史跡を示す石碑や案内板・解説板が、平安時代と今をつないで私たち訪問者の想像を掻き立ててくれます。

そんな平安宮ゆかりの石碑等の中で最も古いものが、「大極殿遺址碑(だいごくでんいせきひ)」と「大極殿遺址道(だいごくでんいせきみち)」です。

どちらも明治28年(1895年)の平安遷都千百年記(紀)念祭にあたって建立されたものですが、街中にある石碑としてはかなり大きなもので、特に「大極殿遺址碑」のほうは基壇を含めると約4mもの高さがあり、現在は児童公園となっている一角に立派な威容をとどめています。一方の「大極殿遺址道」は高さ約2.7mの四角柱で、児童公園の東側入口付近にあるバス停そばに佇んでいます。

大極殿は、平安宮の正庁(正門から入って正面にある大広間)である朝堂院の正殿で、政務が執行されていた平安宮で最も重要な施設でした。発掘調査によると基壇は東西59m、南北24mあり、朱塗りの柱や屋根の両端には鴟尾(しび)を有する豪壮華麗な建物だったことが分かっています。

このように、平安時代の最重要施設の跡を表す石碑ですが、その後の発掘調査で大極殿の位置ではなく、その北にあった昭慶門の西側回廊付近に立っていることが判明しました。児童公園内にある案内板では、そのことにも触れられています。とはいえ、平安京関連の他の石碑とは一線を画す立派な石碑は、明治の時代背景や人々の思いを反映したものであり、興味深く見ることができるでしょう。

平安宮大極殿に関するものとしてこの他に、これらの石碑と同じく平安遷都千百年記念祭の事業で建立された平安神宮があります。平安神宮の社殿は、朝堂院を8分の5の規模で再現したもので、平安神宮拝殿は大極殿にあたります。

また、これらの石碑から西に350mほどのところにある「古典の日記念 京都市平安京創生館」には、1000分の1スケールの平安京復元模型があるほか、大極殿にも同様のものが屋根に載っていたと思われる「豊楽殿鴟尾」の実物大模型があり、平安時代の宮殿について視覚的にとらえることができます。

大極殿は、平安遷都の翌年に完成したものの、たびたび焼失と再建を繰り返し、1177年の火災で焼失した後は再建されませんでした。約380年の間にわたって国家的中枢施設であったとはいえ、石碑建立当時、既に焼失から700年以上が経過していた大極殿が、なぜ再び明治時代に注目されたのか。それは、京都の政財界を中心とする人々が国に働き掛けて、平安遷都千百年記念祭を国家的行事にまで広げたことを踏まえると、大極殿は京都に活気を取り戻そうとするための象徴だったことがうかがえます。記念祭と同時期に開催された第四回内国勧業博覧会や、琵琶湖疏水の建設、京都舞鶴間鉄道の建設などとあわせて、京都の近代化を一気に進めた一大歴史イベントを次々と展開していった当時の京都の人々の気概が伝わってくるようです。

石碑では他に類を見ない大きな大極殿遺址碑を目の当たりにすることで、当時の人々の思いにも触れることができるでしょう。

【データ】

[史跡指定地域]

上京区千本通丸太町上る西側(内野児童公園内)

[周辺情報]

千本丸太町交差点から西へ400mほど行くと、京都市中央図書館や京都アスニー(京都市生涯学習総合センター)があり、京都アスニー内には京都市平安京創生館があります。

また、周辺には平安宮に関する史跡が点在しています。

そのほか、10分ほど歩けば二条城の外堀やJR二条駅、地下鉄二条駅に行けるなど、アクセスも便利です。


平安宮大内裏の瓦が造られていた里

栗栖野瓦窯跡(くるすのがようあと)

京都盆地の北部に位置する岩倉は、三方を標高200〜500mほどの山々に囲まれた小規模の盆地を形成しており、古墳時代にはすでに集落ができていたそうです。かつては田畑が広がる農村でしたが、高度経済成長とともに開拓が進んで住宅街が広がり、1997年の京都市営地下鉄烏丸線「国際会館駅」が開業後は、さらに広い範囲で住宅が立ち並ぶようになりました。

その岩倉南西部に位置する幡枝に、栗栖野瓦窯跡という史跡があります。

この史跡は、平安時代に瓦を生産していた窯跡で、この辺り一帯に瓦窯群があったことを表したものです。官営によりこの地で造られた瓦は、平安宮大内裏の瓦や平安京内外の寺院建築に使われたと考えられています。

平安宮からは直線距離で5kmほどの位置関係とはいえ、標高差55mほどあり、小高い山を越えなければたどり着かない岩倉幡枝の地に、なぜ官営の窯があったのか。大内裏の建設の際には、人々が幾度もこの地まで来て瓦を運んだことを思うと、相当な重労働だったことが想像できます。

半世紀ほど前までは田畑が広がり、現在は新興住宅地となっている様子からは想像がつきませんが、この付近一帯から1kmほど北にある木野あたりまでは、良質の土が出たことから古墳時代に嵯峨野にいた陶工たちがこの地に移り住んだといいます。その後、幡枝から木野の地域は陶器の産地として、明治維新前までの間、朝廷に献上するものも多く作られていました。

また、瓦だけでなく釉薬(陶磁器の表面に塗って焼くことにより色をつける「うわぐすり」)の産地でもあったことが1992年の出土品から判明し、平安宮朝堂院の大極殿屋根に使われた緑釉瓦も、この地で作られたことが伺えました。窯跡が発見されたのが1928年、その後、国史跡に指定されたのが1934年ということを考えると、半世紀以上経ってから新発見が出てきたことになります。

住宅地の中にある小ぢんまりとした緑地という風情で、説明板と石碑が立つだけ。すぐそばに立つ「洛北第三土地区画整理事業 竣工記念碑」と記された石碑のほうが存在感を示しているような史跡ですが、足を運べば古代から続く京都の都市の歩みや人々の営みに想いを馳せることができるでしょう。

また歴史学習において、平安宮が置かれていた場所との地理的関係や、時代が変わっても焼き物を作り続けていたことについて、考えを深めることができれば、位置や空間的な広がりを捉え、時期や時間の経過に着目する教材としても、十分活用できるのではないでしょうか。

さらには、京都市平安京創生館(中京区)に展示されている実物大の豊楽殿鴟尾(ぶらくでんしび)復元物の見学と組み合わせれば、視覚的実感を伴って学ぶことができるはずです。緑釉瓦の色と大きさを確かめながら、この窯跡との関連性について理解を深めるために、ぜひ同館も見学したいところです。

なぜこの地で良質な土が採れたのか、ここで作られていた焼き物はどこに出荷されていたのか、今も作っている人はいないのか、いつ頃まで作られていたのか……など、「栗栖野瓦窯跡」を教材として教科にとらわれない学習問題への発展もできそうです。

【データ】
[史跡指定地域]
京都市左京区岩倉幡枝町654番地、660番地、665番地の7

[周辺情報]
東方には比叡山の全貌を見渡すことができる幡枝には、後水尾天皇の山荘を1678年に寺院に改めた円通寺があり、比叡山を借景に取り入れた庭園からは四季折々の風景とお庭の絶景を見ることができます。
また、南方へ檜峠を下って1kmほどのところには、そこに生息する生物群集が国の天然記念物に指定されている深泥池があります。